山田介堂
山田介堂
- " 山田介堂は、同じ丸岡出身の南画家長田雲堂とは、20歳ほど年下であるが、内海吉堂と共に、明治大正時代に活躍した福井の画家三堂の一人として親しまれている。
介堂は明治3年丸岡町に生まれて、12歳の頃町内の寺に寄寓していた、長崎の南画家王延章に南画の手ほどきを受けた。
その後京都へ出て、田能村直入や富岡鉄斎などに師事し、直入風の画で一家をなした。明治44年には文展にも出品している。
介堂が最も得意としたのは、晩年の大正7年頃から描き始めた青緑山水である。青緑山水というのは緑青を主として、代赭、群青などを使って描く色彩画で、その色彩が美しく、介堂の名を高めている。
またこのころから自己の画風確立を意識し、落款の署名「介」の字を「不」の字に見える書体に改めている。一般に「不堂落款」といわれるもので、その作品は、広く大阪、京都、福井などの愛好者に所蔵されている。
介堂はまた白衣大士、漁樵問答、道釈人物等にも多くの作品を残している。
その他に、扇面絵や俳画などの小品にも優作があり、更に菓子鉢、銘々皿にも下絵を描くなど多方面に活躍した。
南画は画の及ばない所を詩・文をもって充足し、画面には詩文を賛として書き込み、それが画面構成の要素となっており、単なる画の技巧だけでなく、幅広い教養が試されるものである。
介堂の教養の幅広さは、俳句に通じていることにも示される。丸岡の俳諧に列して、幾多の名句を残し、三国滝谷寺には「いろいろの露や光のさし処」の句がある。
晩年には芦原にも別宅を構え、京都との間を往復して画作を続けたが、大正13年に56歳で亡くなった。
この画は、題名からみると北宋の書家で、文人画家でもあった米芾(べいふつ・米海岳ともいう)に倣って描いたものと思われ、水墨画本来の墨の味を生かした大作である。
微雨にけむる山合いから水瀑は渓流となって落ちてくる。山の下からこれを仰ぎ見るようで、構図でいえば高遠図に近く、介堂としては最も充実していた時期の力作である。水墨を主とした詩画一体の境地を学び、それをものにしたことを示す作品である。"
1870-1924
ヤマダカイドウ
Kaido YAMADA
J-130
倣米海岳黄昏微雨図
ホウベイカイガクコウコンビウズ
制作年:1918
サイズ:204.5×86.1cm
技 法:絹本墨画
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