所蔵作品

高田博厚

高田博厚
  • " 高田博厚は明治33年(1900年)石川県七尾に生まれ三歳のときに父が福井で弁護士を開業したので、家族たちとともども移ってきた。  父は高田が十歳のときになくなり、以後母、妹らと順化小、福井中学時代を福井で過ごしている。中学時代から早くも文学、哲学、美術書を読みふけるようになる。高田の人間性豊な作風の萌芽は、この青春時代から培われてきたのでろう。  中学を卒業後上京し、東京美術学校を受験するが失敗して東京外国語学校のイタリア語科に入学する。在学中に津田塾の女学生と恋愛し、後に結婚する。大学にはいったものの、イタリア語科の雰囲気が気に入らず中退して彫刻を始めた。中学の頃から哲学に没頭し、キリスト教の洗礼を受け永平寺にも参禅したりしており、恋愛も体験した早熟な高田青年にとって、蔵書もろくにないような学校など在学価値のないものであった。  その後高村光太郎らと交流し製作を続けていたが、昭和二年に武者小路実篤主催の大調和展に初めて作品を発表した。昭和4年には高村とともに国展に十数点の作品を発表している。この頃から日本は次第に軍港主義的色彩を濃くし、高田も一時共産主義者を援助したことで留置所に入れられたことがあった。このように窒息しそうな日本では活動できないと見切りをつけたか、自由の地フランスへ旅立った。昭和6年高田が31歳の時である。フランスでは友人の紹介でロマン・ロランなども知り合い、また各地を旅行しながら製作に励み、パリ日本美術協会を設立したりして、在仏日本人の交流にも力を注いだ。戦時中は新聞社の特派員となりフランスではレジスタンスの支援もしている。ドイツ敗戦の混乱期には収容所生活を体験するなど苦労を重ねた。その後パリ郊外にアトリエを持ち製作を続けたが、昭和32年に長いヨーロッパ生活に終止符を打ち日本の土を踏むことになった。  帰国後は新製作協会会員、日本ペンクラブ理事、東京芸術大学講師なども務めるが、後には製作に専念することになる。  この裸婦立像は昭和46年に制作されたブロンズ像の高さでは70センチである。福井県立美術館では大地、空、裸婦デッサンなど何点か高田の作品を所蔵しているが、その中でも最も優美なものである。マイヨールに似た柔らかい曲線美で若い女体の持つ魅力を余すことなく表している。ロマン・ロランは高田の在仏時代に自分の肖像彫刻を依頼しているがロランの言葉によれば「高田は内部を引き出す」ということである。高田の彫刻はロダン、マイヨールなどの影響を受けた正統なものであるが、単なる写実ではなく、モデルの知性人格がにじみ出ているのである。彼は単なる彫刻家ではなく、数々の著作をものに文学者でもあり、音楽にも造詣が深い。若年の頃からの旺盛な読書欲を基礎に、自由の国フランスで芸術家、文学者との交流で人間的に磨きがかけられ、それをもとに高田の独自の彫刻感が確立され、見るものの心を打つ作品として表現されてるのである。"

1900-1987

タカタヒロアツ

Hiroatsu TAKATA

S-3

裸婦立像

ラフリツゾウ


制作年:1971
サイズ: H 70cm
技 法:
材 質:ブロンズ
形 状: