堀田清治
堀田清治
- " 200号の大きな画面には、3人の男と幼児を抱く1人の女が、沈んだ表情で椅子に腰を下ろしたり、立ちつくしている様子が描かれ、「雨の宿泊所」と題名がつけられている。描かれている人たちの分厚い衣服や、背景のガラス窓のくもりを手でぬぐった跡などを見れば、季節は真冬のようである。
「土方殺すに、刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい」という都々逸(どどいつ)まがいの俚諺があるが
真冬の雨の夜うらぶれた裸電球の下がる安宿にたたずむ労働者の姿には、明日への希望を失い生活に疲れた者たちの暗さが漂っている。
この作品が描かれたのは、昭和5年である。昭和5年といえば前年10月にニューヨークのウオール街で起きた株式の大暴落に始まる世界大恐慌が日本にも波及し、加えて昭和5年1月の日本政府の金解禁政策が裏目に出て、日本経済の恐慌が深刻なものとなり、一般労働者の賃金カットや首切りなどによる社会不安が強まっていた時である。作者堀田清治はまさにその時代の現実に対して、目を雄向けることなく、冷静な視線を向けている。
堀田清治は明治31年12月6日福井市に生まれた。宝永小学校から福井中学に進み、大正9年に東京の太平洋美術研究所に入り油絵を本格的に学んだ。同研究所で当時帝展(帝国美術院展覧会の略称、日展の前身)のホープとして活躍していた高間惣七に師事し、同氏や牧野と虎男が主宰していた槐樹社展や帝展に、働く労働者の群像を描いた意欲作を次々と発表して注目を浴びた。「鍛冶屋」「靴屋」「集まれる労働者」「寒夜作業」「餓」そして「雨の宿泊所」は昭和3年から昭和6年の間槐樹社展に発表された作品である。また帝展には大正15年に初入選しているが、昭和8年には「炭坑夫」で特選を受賞している。
また大正11年には福井市で土岡秀太郎、木下秀一郎とともにたびたび帰福して後進の指導にも務め郷土画壇の育成にも功績を残した。戦後の昭和33年には新槐樹社を創立して代表となり、また日展の参与として活躍していたが、昭和59年2月17日、心不全のため85歳で没した。 "
1898-1984
ホッタセイジ
Seiji HOTTA
O-5
制作年:1930
サイズ:183×268cm
技 法:油彩
材 質:キャンバス
形 状: