所蔵作品

鍬形蕙斎

鍬形蕙斎
  • " 鍬形蕙斎というこの変った名前の画家は、別名北尾政美(まさよし)としても知られており、浮世絵からスタートして後に本絵師として名をなしている。鍬形蕙斎の号は政美が30歳頃から晩年にかけて使用した。  明和元年(1764)江戸で生まれたが、幼少から絵を好み、美人画で独自の画風を開拓した北尾派の祖北尾重政に入門した。大半の浮世絵師がそうであったように、安永9年の17歳のとき「十二支鼠桃太郎」の挿絵を描き、黄表紙画家としてデビューしている(黄表紙は江戸時代の安永~文化のころ流行した絵解き文学で、本の表紙が黄色だったのでこの名がある)。翌年の天明元年に師の重政から政美の名をもらい一人前の挿絵画家となった。黄表紙画家の中では最大の作画量を誇り、その数は一説には160点余といわれている。一枚絵の作品は極めて少なく浮絵、長観的風景画、武者絵などがわずかに見られる。  北尾派は当時流行の勝川、鳥居、喜多川などの各派とは違った独自の画風を築いた一派であり、政美は重政の門人の中でも特に傑出した一人であった。政美と号した若い時代を代表する作品の一つに、絵の手本として絵を分野、種類ごとに分類編集した「略画式」という画譜がある。略画の意味はその序文に「形によらず精神を写す、形をたくまず略せるを以て略画式と題す」とあるように、戯画ではなく、草体の絵画であるといえよう。これらの技法は後の葛飾北斎に受け継がれていくわけである。  政美が津山藩松平侯のお抱え絵師となったのは寛政6年(1794)のことであり、それ以後は鍬形蕙斎紹真(つぐざね)と名乗っている。このころから狩野養川院惟信(これのぶ)に学んで浮世絵に狩野派の技法が加わり、さらに京都の円山応挙などの影響も受けている。その後も肉筆画や画譜を中心に活躍し、特に文化の初期ごろの世態風俗と軽妙な筆遣いで描いた巻物「職人尽絵詞」は蕙斎時代の代表作となっている。  また鳥観式風景版画ともいうべきものもつくり出している。これは従来の鳥観図に浮絵の技法を加えたもので、精密に芸術性豊かな堂々とした画面をつくりあげた。画面も標準的な錦絵版画(26×39cm)より大きい横大倍判と呼ばれるサイズであり、地図などと同様袋入りで売り出された。  このように略画のような軽い絵を描く一方で、精密な鳥観図をものにし、写実的な花鳥画も描くといったバラエティーに富んだ仕事をしている。  この菟道(うじ)蛍狩図は、宇治川での蛍狩を描いたもので、蕙斎独特の軽妙な筆遣いの淡彩画である。月光の下で二そうの川舟が浮かび、手前の舟では客の一人の若い女性が立ち上がり、笹の枝を持って蛍を捕まえようとし、向こうの舟では扇をかざして、蛍が飛び交う様を楽しんでいる。ゆったりとした画面の広がりの中で、立っている女性の着物の色彩がひときわ鮮やかで、優雅な舟遊びの風情がにじみ出ている。  紹真筆となっているところから後期の蕙斎時代、寛政末から文政期の間に描かれた作品であろう。"

1764-1824

クワガタケイサイ

Keisai KUWAGATA

J-116

莵道蛍狩図

ウジホタルガリズ


制作年:18C.
サイズ:117.4×25.5cm
技 法:紙本墨画淡彩
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