所蔵作品

菱田春草

菱田春草
  • " 長野県生まれ。岡倉天心が東京美術学校の校長になった年に、第2回生として東京美術学校に入学。後に天心が東京美術学校を辞職すると、大観らと共に美術学校の講師職を捨て、日本美術院の創設に参加し、天心が目指した日本画の改革運動の中心メンバーの1人として活躍した。明治39年には、日本美術院の移転により、大観、観山らと茨城県の五浦に移住。この頃から眼病の兆候が現われ、治療のため2年後には東京に戻る。明治42年には不朽の名作《落葉》(重要文化財)を第3回文展に出品、最高賞の2等第1席が与えられたが、2年後に36歳で夭逝した。  落ち葉を主題にした作品は文展出品作に前後して複数描かれているが、その中で本作が文展出品作に最も近似している。文展出品作に描かれている若杉とトチノキが本作では左右逆になり、更にトチノキがカシワに変わっていたり、俯瞰する視点の高さが違うなど多少の違いが全体的に見られるが、いずれの作品も、まだ武蔵野の面影を残していた当時の代々木を写した自然主義と、日本の伝統に根ざした装飾が上品な表現に結実していることに変わりはなく、本作も文展出品作に劣らない価値を持っているといえる。"

1874-1911

ヒシダシュンソウ

Shunso HISHIDA

J-7

落葉

オチバ

Fallen Leaves


制作年:1909~1910
サイズ:154×354.3cm
技 法:紙本着色
材 質:
形 状:六曲一双屏風


近代日本画の不朽の名作「落葉」を遺した菱田春草(1874~1911)は、理知的で進取の気質に富んだ人物であった。しかし健康に恵まれず、33歳の時に眼病を伴う腎臓病を患い、一時失明の危機に陥る。その後何とか回復し、清新な感激に満ちた目で自然を観察し生まれたのが、晩秋の代々木の風景を描いた「落葉」の連作だった。
 療養のため転居した代々木は当時は雑木林で、春草はここで、画友たちや、師である天心の文学性を重要視する浪漫的気質からも遠く離れ、一人静かに自然を観察し、本来持っている冷静かつ理知的な個性を呼び覚ましていった。「落葉」の連作が持つシャープな構成は、このような春草の気質が十分に表された成果といえる。また更に本作には、写実を超越し、装飾的かつ象徴的方向へ行こうとする更なる進化を見ることができる。「落葉」の連作を完成したあと、再び健康を害した春草は、本作完成の2年後36歳という若さで夭折してしまう。